宮崎勤死刑囚の刑執行─何も学べない・学ばないボクら

 東京・埼玉連続幼女殺人事件宮崎勤死刑囚の死刑が執行された。



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080617-00000001-maip-soci



 「オタク」という言葉ができたのは1983年。ファミコンができ、東京ディズニーランドができた年でもある。それから5年後の出来事だった。彼の事件をめぐっては、様々な分析がなされ、出版物も多く出た。



 そもそも、彼はオタクだったのか、というのも議論があった。彼の部屋を映した写真は後にやらせだったことがわかるが、その写真に映し出されたビデオの山。ビデオ収集家としてメジャーになる。そして、そのビデオのひとつが残虐だということで、ビデオ規制も叫ばれ、各地で条例化していく(しかし、問題となったビデオを彼は見ていない)。



 彼は多重人格(乖離性同一性障害)だったのか。「ねずみ人間」が現れた、といった言説は何だったのか。詐病と主張する人もいるが、精神鑑定では、人格障害精神分裂病、乖離性同一性障害の3つに割れた。



 ペドフェリア、あるいはロリコンだったのか?幼女を狙ったということは、性的な傾向としての執着した対象だったのか?彼は、成人女性の代替として幼女を狙ったと証言して、性的な傾向としての幼女ではなかったことがわかっている。



 私たちの社会は、この事件で、彼自身に様々なレッテルを貼って、「自分たちとは違うのだ」といって切り離し、私たちが安心してきた。そのために彼が得意な存在であるほうが、彼の行動が異常であるほうが、よかったのだろう。



 そのためだろうか。私たちは、この事件を通して、レッテルを貼ることや規制をかけるといった表面的なことしか実践できず、この事件を産んだ社会背景はなんだったのか。そして、その社会をどのように作りかえて行くのかということを学び実践することはなかった。



 学べない理由はたくさんあるだろう。人はひとつの事件で、社会を変えるほどの学べる存在ではないことは言うまでもない。しかし、少なくとも、彼を産んだ社会で、都合が良い、もしくは都合が悪くないと感じている私たちがいるからだろう。人によっては、そのほうが圧倒的に都合が良いのだろう。そのため、積極的か、消極的にかは別として、彼を産み出した社会を維持してきた。



 同じことはのちの神戸連続児童殺傷事件や、大阪教育大付属池田小学校乱入事件、秋葉原通り魔殺傷事件なども、同じように私たちとは違う存在として「切断」してきた。そしてレッテルを繰り返す。



 ある意味で、事件を分析をすることの無力感に抱く。学べないのに、なぜ分析するのか。結局、分析は消費のため、エンターテイメントでしかないのか。そして、私たちは単に何かを規制するといっただけしかできないのか。今回も、ナイフの規制、歩行者天国の規制、ネット予告の通報強化といった表面的なところでしかできない。



 社会の質が自殺を産み出すのと同じように、事件も産み出す。もちろん、殺人事件は減少している。昨年は戦後最も少なかった。しかし、衝撃を受ける事件が増えていると感じる(いわゆる、体感治安の悪化、ってやつだ)。



 事件から何も学べないであれば、同じような事件は続くだろう。それは、学べない・学ばない私たちのリスクでもある。でも、おそらくは今後も、同じような事件が起きても、レッテルを貼り、切断し、安心していく材料を探して行くのかもしれない。

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