「ちゃんと、私の内面を見てほしい」
 こんな意見がよく聞かれます。先日の「NHKスペシャル 日本の課題 子どもが見えない」でも、そうした子どもの意見がありました。それに呼応するように、ゲストの大人たちも、「ちゃんと、子どものことを見てあげないといけない」という趣旨の発言していました。

 これって一見、正論のようにも見えます。
 どうなんでしょうか?私たちの子どもの頃って、そんな風に思っていたのだろうか?いや、どちらかといえば、親や教師には、内面に入ってほしくなかったように思います。何を考えているのか、何が趣味なのか、何が悩みなのか。そんなことを親や教師に知られたくなかった。親に私は何を期待していたのだろうか。教師に私は何を期待していたのだろうか。いまとなっては、思い出せないことがたくさんある。しかし、内面には触れて欲しくなかった、ことは覚えている。

 じゃあ、私の内面を誰かに理解してほしいと思ったことがあったのだろうか。少なくとも、高校生のころまでは、それほど強く思わなかった。
 「どうせ分からないだろう!?」
 「勝手に決めるつけるな!」
 とは思っていたのは覚えている。しかし、同時に、親や教師ってそんなもんだ、とも思っていた。期待していないのと同時に、現実をみていただけだったように思う。
 内面を理解してほしい、って思ったのは、あるいは、内面を吐露しようと思ったのは、浪人時代から大学時代にかけての時期だったのかな。生き方や進路などについて、友人たちと話すようになってからだと思う。でも、そのときでも、内面を理解してほしい、とは強く思ってなかった。

 どうして、最近は、
 「内面を理解してほしい」
 との意見が増えたのだろうか。