刑法39条問題

 重度の鬱病患者が犯した殺人事件。自身の長女を殺害したのですが、判決で無罪となりました。
 「事件は正常心理から理解できる範囲を超えたもの』として、刑法39条を適用したと思われます。
 刑法39条は(心神喪失及び心神耗弱)の項目であり、
 「心神喪失者の行為は、罰しない。
  2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
 となっています。
 そもそも刑法で有罪になるためには、
 1、構成要件を満たしているか否か。
 2、責任能力があるか否か。
 3、違法性が阻却されるか否か。
 すべてが満たされたときに、有罪となります。
 この事件は事実関係を争った様子はないために、1は満たしているでしょう。3についても、正当防衛でも、緊急避難でもないために、違法性は阻却されない。問題は2の責任能力の一点にしぼられていたようです。
 責任能力が問題となる場合、14歳未満なら刑事責任は問われる事はない。刑法体系でもはなく、児童福祉の法体系によって処理されます。つまり、矯正ではなく、保護の対象となるのです。
 また、精神障害を持った人なら、心神喪失か、心神耗弱かが問題となります。
 そもそも、なぜ14歳未満の少年が責任能力がないとされるのか。精神障害を持った人が責任能力がない、あるいは限定的にされるのか。それは近代的な人間観によるのでしょう。つまり人はいつでも理性的で、善悪の判断は可能であると。そして、理性的な人間は、労役によって罰を与える事ができる(つまり懲役)。
 理性の持ち主=労働の対象である者=責任能力があるもの。
 そうした価値観が支配されているのでしょう。
 重度の鬱病患者だった被告人は、理性を持たず、善悪の判断がないと判断されました。
 たしかに、重度の鬱病の中で、生後5ヶ月の子どもを育てるのは並大抵なことではありません。報道では事情がよくわからないですが、相当な苦労はしていることでしょう。
 しかし、こうした判決の背景には、重度の鬱病患者は近代の原則から逃れられている=排除されている存在として見られているのではないでしょうか。現段階で同じような思いをしている人はどのように考えればよいのか。
 ただ、法律は、社会の鏡です。個々のケースを論じても、社会全体の価値の中心が、精神障害者を近代の枠組みから排除していることを問題にしなければならないとは思います。

 長女殺害:
うつ病と認定 35歳女性に無罪 さいたま地裁

 生後5カ月の長女を殺害したとして殺人罪に問われたさいたま市西区の無職女性(35)に対し、さいたま地裁(下山保男裁判長)は10日、「事件当時、重症のうつ病で善悪を認識する能力を欠いていた疑いがある」として、無罪(求刑・懲役5年)を言い渡した。
 判決によると、女性は01年12月16日午前11時50分ごろ、同市内の夫の両親方で、未熟児だった長女(生後5カ月)の鼻と口をふさいで首を絞め、浴槽の水の中に押さえつけ水死させた。検察側は「一連の行動は合理的で責任能力を失っていない」と主張したが、公判中の2回の精神鑑定でいずれも女性が重症のうつ病だったと診断された。
 下山裁判長は「事件は正常心理から理解できる範囲を超えたもの」と判断した。さいたま地検の内尾武博次席検事は「控訴するかどうかは判決内容をよくみて、上級庁と相談する」とした。
【斎藤広子】
毎日新聞
 2004年12月10日 23時37分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20041211k0000m040144000c.html