いくつかの感想

 拙著『男女七人ネット心中 マリアはなぜ死んだのか』(新紀元社)が発売され、1ヶ月が近づきつつあります。いくつかの感想がメールで寄せられたり、blogで書かれたりしています。あるいは、電話も来ました。

 これまでの感想を読むと、まず、一つの目的は叶ったのではないかと思えます。最大の目的な、マリア主導説(呼びかけ人のマリアが、意図的に他の6人を集め、共感的なメッセージを出して、ネット心中の世界に引きずり寄せたなど)に反証することです。本の中にある「8人目」のメールのやりとりを提示できたことで、マリアもある意味で、巻き込まれた側だったことが分かります。また、人数が関係なかったことを示すこともできたように思います。それに対する感想がいくつかありました。

 ただ、考えていなかった反応は、この本はマリアを題材にした「私の物語」である、との解釈でした。この本は、マリアを含む七人が亡くなってすぐに書き始めたものです。たしかに、どこまで「私」のことを書くのか、どこまで「マリア」のことを書くのかは、迷いながら書きました。
 その中で、十分に「私」を出し切っていないのではないか、との指摘もあります。それは、出し切ってしまうと、涙が出てきそうになり、筆が進まなかったからです。筆が進む程度といったら語弊がありますが、そのときのモードで、書くことと、自分を出すことのバランスによって書かれた面もあります。ここまで「私」との距離を考えながら書いたものは、私にはかつてありませんでした。
 そうした「出し切れていない」との見方とは逆に、マリアを通じて、私を物語っているとの意見もあります。つまり、マリアの発言は、私の代弁なのだ、という見方です。たしかに、そうした見方もあるでしょう。だからこそ、私はマリアに興味があったわけですし。一方、「マリアのようになりたい」が、なりきれていない自分へのコンプレックスも抱いてきたと思っています、その意味で、憧れの存在でもありました。

 本はたしかに、私の思いを込めたものです。
 しかし、消費される段階では、読者がどんな思いを持っても自由です。むしろ、解釈は千差万別になることがよいのだと思っています。

 他の解釈、感想を含め、読んだ方は感想を聞かせてください。
 お待ちしています。