ひとり暮らしの「自由」と不幸

 仙台での学会に出ていて、いろいろ考えてしまったことがあります。アルコール依存症の当事者というのは、本人とそのパートナー(たとえば、妻)ですが、生活問題を抱えていて「困ったことがある」と感じるという意味では、本人よりも、そのパートナーのほうが当事者性は高い、ということらしい。



 ということは、アルコール依存症者本人がなにか問題を抱えたとき、いわゆる「問題飲酒」の傾向を帯びたとき、家族や恋人等のパートナーがいるかどうかで、本人が医療機関等のサポートシステムにつながるかどうかが別れるんじゃないか、と思ったわけです。



 仮にそうだとして、ひとり暮らしだと、家族はいない。恋人がいる人は「困ったと感じる人」になるが、別れてしまうといなくなる。いたとしても、それは「共依存」的な関係になってしまったりする。依存症を支えるのは、共依存の人がいるから、という見方ですよね。それは、アルコール依存症のみならず、仕事依存症もギャンブル依存症などにも言えることでしょう。



 だとすれば、ひとり暮らしや恋人関係がない人のほうが、問題は見えにくい、ということになります。アルコール依存だとしても、「飲みすぎた酔っぱらい」くらいにしか見られないかもしれません。あるいは、「あの人は、飲むとああだから」と諦めがあったりします。すべてサポートシステムにつなげればよいのかというわけではないですが、見えない問題として処理されていくんだろうな、と思う。



 それって、酒好きからすれば「ひとり暮らし」は「自由」でもありますね。誰も「問題飲酒」と指摘しないわけで、好きなだけ飲めたりします。お金のある限り。しかし、「命が短くなる」ということから考えると、長生きを基準としれば、「不幸」になります。もしかすると、いわゆる「孤独死」になります(孤独死が不幸なのかどうかはわかりませんが)。飲みながら死ぬ、ってのは、あるいはある対象に依存しているときに死ぬ、ってのは、本人は幸せなんだろうか。それも当事者じゃないと分からないところです。



 いろいろ考えていると、依存症の治療、あるいは依存症者への援助ってのは、誰を救っているのか?本人なのか?パートナーなのか?それとも両方なのか。仮に両方救えたとして、だからといって、それがよい関係の出発になるのかどうかは別問題でしょうね。