【新刊】「絶対弱者」【共著】

絶対弱者―孤立する若者たち

三浦 宏文,渋井 哲也





 大学時代の同級生(同じ学部ではないが)三浦宏文氏(文学部印度哲学科卒、文学研究科博士後期課程修了・博士(文学))との共著本『絶対弱者ーー孤立する若者たち』(長崎出版、1600円+税)が発売になりました。



 本書では、「弱者になりきれない弱者」を「絶対弱者」と呼んでいます。



 身体障害者精神障害者などは「社会的弱者」であり、社会的サポートが、十分ではないにせよ、受けれます。一方、コミュニケーションの弱者は、社会的サポートの範疇からは外れます。そのため、弱者になりきれず、一見、弱者にも見えません。そのため、孤立感を深めていく可能性があります。



 「絶対弱者」は、年齢や階層と問わず、出現します。

 私と共著者である三浦氏とは、見てきたフィールドが違うために、「絶対弱者」の描き方が違っています。しかし、年齢や階層を超えて出現するが、その階層によって現れ方は異なる、といった見解は一致しています。



 私が本書で述べている「絶対弱者」の特徴は、



 1)高学歴だったり、知的好奇心があるなど、知に関して無関心ではない。

 2)社会的な成功を目指して、様々な行動をしている。

 3)地味な努力や社会的なコミュニケーションを軽んじている。

 4)自分の振る舞いの結果に関する想像力が欠如している。

 5)その結果に関して、学習しようとせず、自己正当化する傾向がある。

 6)親との関係が清算しきれていない。

 7)相手の感情を想像できない。

 8)自己が肥大化している。

 9)社会的なコミュニケーションを必要と感じていない。

 10)発達障害ではない。



 といったところです。

 

 以下、あとがきより。



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 たしかに「弱者になりきれない弱者」としての「絶対弱者」は、社会政策的にもサポートの対象ではない。ただ、そうした「絶対弱者」は以前からも存在していたし、企業や学校の中で、なんとかしがみついて生きてきた存在だったはずだった。



 しかし、自己責任論議が強まるにつれ、「勝ち組」「負け組」といった2分法が社会全体のなかで覆ってくる。そうした中では、「絶対弱者」は「勝ち組」になりえず、また、「負け組」にはなりえても、社会福祉の対象というほどではない。単に「努力をしない若者」として見られてしまう可能性を秘めてしまうのだ。



 そうした「絶対弱者」は、若者批判の対象として浮き上がってくることになる。たとえば、「キレる若者」「無気力な若者」といったような枠組みのなかにいることになる。それが自己責任論とあいまって、すべては「絶対弱者」の責めに帰してしまう。コミュニケーションという範囲での「弱者」であるがために、「弱者になりきれない」のだ。



 私はそうした「絶対弱者」たちを見捨てることができない。「見捨てる」というスタンスに立ったこともあるのだが、「見捨てる」という行為は、「排除」の論理につながる。そうした排除の論理の中に、「絶対弱者」を位置づけたくないのも動機の理由だ。



 しかし、それ以上に、「見捨てる」という行為をするときの、自分自身が「余裕のなさ」を自覚したからだ。「見捨てる」側に余裕がないからこそ、「絶対弱者」は、「絶対弱者」たりうるのだ。社会全体に余裕がなくなってきているからこそ、社会問題になりえる。そう私は感じるようになってきている。