人が亡くなると、いろいろなことが思い出されます。おそらく、誰もがそうでしょう。誰もが、「わたししか知らない思い出」や「自分しか見ていない部分」を持っていることでしょう。また、自分とその人の実際の関係の質や量に関係なく、自分が抱いているイメージを勝手に膨らませ、過度にしんみりしたりすることでしょう。私もその一人だとは思います。
 ただ、その思いを吐き出しすぎて、わざわざ他人に心配してもらうような表現の方法って、他の多くの人を巻き込むことがあります。たしかに、亡くなった人がその人にとって「重要な他者」だったり、「アイドル」であったりすれば、抱いていた思いをぶちまけたいと思うことでしょう。しかし、明らかに、他人に心配してもらうような表現はどうなんだろうか。そういう表現をみると、亡くなったことによる落ち込みというよりも、「わたしをみてほしい!」という感情のひとつとして利用しているのではないか?って思ってしまいます。
 もちろん、亡くなった人との思い出を書き連ねることで、気持ちを整理したり、いつまでも覚えていようとしたり、肯定的な面もあるんです。ただね、亡くなったことによって、他人を巻き込むような感情を出すのは、結果的に周囲を負の感情に巻き込むだけではないかと。その人が生きている間に知らなかったり、親密ではないのに表現したりすると、どうなのか?と思ってしまいます。このあたりは、その人にとって、亡くなった人がどのような位置づけにあったのか、にもよるので、一概に線引きできないので、難しい問題です。

 今では多くのメモリアルサイトがネット上にあることでしょう。そのうちの、あるメモリアルサイトの関係者が言っていたことがありました。それは、
 「たしかに、メモリアルサイトがあることで、彼女が生きていた証をつくることができる。でも、維持していくうちに、徐々に、彼女を知らない人が掲示板に書くようになっていく。そうした時に、『あなたは、彼女の何を知っているのか?』と思うことがある。だから、何度もサイトを消そうとした。でも、サイトを維持することは、生前からの彼女の意志なので、消すことはできない。また多くの協力者がいたおかけで維持できるので、自分の思いだけを主張はできない」

 思い出を残すことは重要だと思います。でも、思い出をどのように残していくのか。どのように扱って行くのかはまだまだ課題のようです。そのひとつとしては、サイト等での著作権意匠権がある。たとえば、私は、亡くなった女性のサイトを代理管理人として、管理しています。それは、彼女の生前の意思でした。しかし、著作権は、遺族にあります。遺族が著作権を主張し、サイトをアップすることを拒絶すれば、サイトを維持することはできません。いま代理管理しているのは、遺族の方と「数年の間」(具体的な年数は話し合っていない)という約束があるからです。また、別のサイトでは、知らない人が入ってこれないように、パスワード制ににして、遺族が管理しています。
 ただ、こうした著作権が周囲とのトラブルを抱えることもある。某サイトは書籍にもなりましたが、著作権でもめていました。いまのところ、私の周囲にはそうした情報はないので、安心していますが。

 私は、書き手なので、しかも、亡くなった人たちと取材と称して会ってきました(もちろん、取材をのぞいたプライベートで関わってきた部分も多いですが)。なので、亡くなった後に、その人たちのインタビューにもとづいた記事を発表したことがあるし、これからも発表することがあることでしょう。その原稿が、ある種の利害であることはかわりなく、言われたことはありませんが、「人の死を利用している」と言われれば、それまでです。認めざるを得ません。新聞記者時代に、交通死亡事故や殺人事件を記事にしたりしていましたが、それも「死」を利用したことになるのかもしれませんし、フリーになってからも、「死」は私の取材のテーマのひとつでした。もちろん、最初から死ぬだろうと思っていませんし、取材した人が亡くなってしまえば、落ち込みます。よく人には、「そんな取材(自殺に関連したもの)をいつまでもできますね?」と言われます。たしかに、自殺だの、自傷だの、生きづらさに関連するものは、それほどメディアのマーケットとしては大きくはないです。精神的プレッシャーや落ち込みを考えると、正直にいえば、割に合わないのかもしれません。にもかかわらず、どうしてこの分野を取材し続けるのか。自問自答が続きます。