しんどいのに

 たまに、電話をしたり、会って話している女性と、久々に電話をした.最近はひきこもり気味らしく、人と会っていないという(会わずに、生活ができるのも羨ましいが)。



 彼女は、私が憧れる人のひとり。

 「てっちゃんは、どうして私に連絡くれるの?」

 と自信なさげ。「明るいし、話すと癒される」とよく言われるらしく、それと同じなのか?と思ったらしい。ただ、彼女は、中学のころから人間不信なのだ。



 「いや、癒されるから、電話しようと思ったことはないよ。ただ、憧れるから、話したいと思うだけですよ」

 「憧れるって、何が?」

 「言葉にするのは難しいけど、簡単にいえば、素直だから」

 「あー、それはわかる。素直にしないと、苦しいだけだし」



 彼女にはある想いがある。

 「この世はしんどい。生きてるってことは、そのしんどさを受け入れる、そして、この世の価値観を受け入れるってことでしょ?そんなのもう疲れた。20代でもそんなんしんどかったのに、30代になっても、しんどさを受けいれるの?」



 同じではないが、私は30歳になれば、この世は「終焉」を迎えるか、何か大きなことが起きて価値観の逆転が起きるのではないか。そう思っていた。私の30は、1999年だから、ノストラダムスの預言の年だった。ある意味、オウム的な終末観を持っていたのかもしれない。



 ただ、彼女のほうが深刻な生きづらさを感じている。この日の電話で、彼女がそうした生きづらさ、死生観を持っていることを初めて知った。けっこう、長い付き合いだったが、なぜそれを知らなかったのだろう。彼女は別に隠していたわけではないようだが。



 たしかに、自殺者3万人の時代。自殺をした人からすれば、そうした社会を構成する生き残った私たちも、ある意味で加害者だ。その加害者的な価値観を受け入れている限り、自殺者は耐えることはない。世の中はしんどい。生きづらい理由はたくさんある。



 しかし、なぜしんどいのに生きるのか。中島義道的にいえば、「どうせしんでしまうのに、なぜ生きているのか」。その絶対的な答えはない。ただ、言えるのは、生きていれば、好きな人(いろんな意味で)に会えるから。会っていれば、少なくともその時は楽しいから。少ないながらも、その時間を欲していることは間違いない。