記憶

 私は、これまで取材して来た人を、全員は記憶しておりません。何百人も、あるいは、何千人(これは言いすぎ?)も会って、話したりしてきて、この人は印象深いとか、いい人だろうと思っても、けっこう忘れているかもしれない。いま、思い出そうとして、何人が顔と名前が一致するのだろうか。顔と名前が一致するのは、友達では何人いるだろう。最近の友達では、一致するんだろうけど、社会人になってから知り合った人で、とくにフリーランスの人や飲み屋で知り合った人なんか、名前が実名かどうかも知らない。名刺と顔が一致するなんて、どれだけいるんだろう。



 仮に一致したとして、存在を気にかける人、ってどれくらいいるんだろうか。たとえば、取材とは関係なしに、飲みに誘ってるとか、仕事とか関係なしに会いたいとか、って、思うような、あるいは思われる関係ってどれくらいなんだろう。



 たとえば、mixiを急に辞めたとして、どれくらいの人が私の表ブログにアクセスするのだろうか。表ブログを辞めたとして、どれだけ存在を気にかけてくれるのか。ネット社会にずっと身を置いていると、そんなことがすごく気になるときがある。ネットなんかなかったときには、会いたい時に誘い、話したいときに電話をしていたものだよな。会いたいとか話したいとかは気にしたことはあったけど、存在を気に留めてくれるかどうか、なんて思わなかったかもしれない。



 そんな感覚で、週刊新潮の実名&顔写真報道を見ても、週刊誌を持ち歩いているわけでもなく、それ自体が発見の効果なんてあるのかどうか(掲載の是非論はまた別の話)。数ある情報のひとつにしかすぎないし、掲載されている写真もちょっとピンぼけだし、いつ撮ったものかどうか。



 この日記を書いているとき、ニュース速報が流れ、少年は遺体で発見されたようだが・・・・。実名も顔写真も情報として処理されていまうか。



 私という存在だって、情報化社会の中にある、数ある情報のひとつにしか過ぎない。そんなことを気がつくと、いついなくなっても、いつ死んでも、ネットの中に、私がいたという情報くらいは転がっている。googleで検索すると、2万弱のサイトがヒットする(しかし、実際に出てくる情報は400件くらい)。でも、そんなデータも何時の日か確実に減って行く。人生ってそんなものなのかもしれないが。。。記憶というものが薄れていけば、記憶=ネットのデータベースになるのかも。



 (mixiに書いたものを転載)