エロマンガ・スタディーズ

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

永山 薫



 性体験に限らず人間は何かを契機に自分を劇的に変えたいという願望がある。あるいは、人間には誰かによって自分が劇的に変えられることに対する期待と恐れがある。



 変身物語に注視すると時、主体は常に「受け」である。



 『エロマンガ・スタディーズ』(永山薫著、イースト・プレス)の一説です。



 変身願望は私にもありました。おそらく幼稚園の頃からあったかもしれない。「女」になりたい(というよりは「女の子」になりたかった)、と思い続けていたこともある。ただ、「自分は女だ」というトランスセクシャルトランスジェンダー的なものはなかった。いまは「男だ」という認知がありながらも、「女(女の子)」になりたい、って思っていた。



 そんな私を「劇的に変える」状況は、私にはありませんでした。小学校の頃、転校生がうらやましかった。「転校って、性は変えられないかもしれないけど、キャラは変えられる」って、思っていた節があります。だから、転校には憧れた。そもそも、変えるほどの「何か」を私が持っていたのか、といえば、そうではないだろう。いや、そのときも持っていた「何か」程度であっても、劇的に変えたいって思っていたかもしれない。



 私がこの頃に、エロマンガに出会っていたら、どうなっていただろうか。70年代だから。劇画ブームだったのだろうから、もっと違った興味を抱いていただろう。しかし、残念ながら、普通の漫画、そして漫画よりもテレビアニメ・戦隊モノにはまっていく。そして、宇宙戦艦ヤマトのパクリ漫画を作ったものだった。



 劇的に変えられる期待と恐れ。いまでもこうした感情はありますね。私の恋愛パターンが、私の主体に相手を染めるのではなく、「私があなた色に染まってしまうかもしれない」という時のほうが燃え上がるのもそのひとつなのだろう。



 劇的に変えられる期待というのは、おそらく、絶対にあり得ない状況ほど期待するのかも。だからこそ、「女の子になりたい」と常に思い続けることができたのかもしれない。リアリティがあれば、きっと「女の子」になっても世界は変わらない、とか思っていたかもしれない。ただ、少しはそれを感じていたせいか、もし「女の子」だったら、きっと「援交少女」になっただろう、って思っていた。ある意味、「援交少女」には、変身願望のある人も多かったしね。「ゴスロリ少女」にも「レイヤー」にもそうした感覚はあったことでしょう。



 変身願望を実現できる恋愛なんて、ありゃしない。でも、そんな恋愛があったらな、なんて、『エロマンガ・スタディーズ』を読みながら、思ってしまう今日このごろ。