送り火

hatesbtetuya2003-12-02

 直木賞作家の重松清さんの『送り火』(文藝春秋、2003)を読んでいます。この作品は、ある私鉄沿線の、郊外で起きてるさまざまな人たちの葛藤を描いている、短編がいくつかある作品集です。フリーライターもしている重松さん。そのフリーライターの葛藤も取り上げています。

 『ハードラック・ウーマン』は、あるライターが企画で取り上げた「やらせ」に近い作品が一人歩きをしていく。ある駅にいるおばさんに祈ると願うが叶うという都市伝説めいたもの。しかし、実はそのおばさんは「尻押しおばさん」で自殺を誘発させるおばさんだった。そして、おばさんに祈った男が自殺してしまう…。なんとも後味の悪さを残したが、こういうこと=雑誌記事が一人歩きをしてしまうことはあるのだろうな、と。

 泣けてしまうのは『かげぜん』。亡き子どもを巡る、ある夫婦の葛藤だ。昨今は情報化社会のために、亡き子どもでも、ダイレクトメールの名簿から削除されず、子ども宛のダイレクトメールがくる。それに、妻は返事をして、せめて名簿からでもなくならないようにする。それは、妊娠していて、その子ばかり気にし過ぎないように、亡くなった子どものことを忘れないように、せめてできることをしていた。ランドセルを購入し、公園で子どもに背負ってもらって、傷を付け、そのランドセルのミニチュアをつくる。

 私が、重松さんの単行本を読んだのは初めてです。『ビタミンF』で直木賞を受賞して、重松さんの名前を知りました。フリーライター出身の小説家で、存在としては近いものがあります。近親憎悪からでしょうか、読むことを遠ざけていたように思います。仕事がらみで読みはじめると、この『送り火』は、心理的になぜかシンクロしてしまいました。

 ほかにも、飛び込み自殺を阻止するのがうまい駅員を描いた『そーよろ』、子育てを優先するために郊外に住む事を選択した夫婦の生活をテーマにした『漂流記』、昔の売れっ子音楽ライターが、かつての自分の文章のファンに出会う『シド・ヴィジャスから遠く離れて』…などの短編作品があります。

 『漂流記』は、都市から郊外に生活の拠点を移すときの、ある「あきらめ」が見えかくれします。私も、長野県で新聞記者をしていたときに、似た感情がありました。もう東京的生活ができない。そして、批判的だった生活(作品の中では、マンション的な近隣の付き合い、わたしの場合は、善悪関係も興味も関係なく付き合わざるを得ない地方の生活)をしなければならないという「あきらめ」。最近引っ越した私ですが、新宿区から、23区内でありながらも、寂しげな風景な環境に移ったときの、「さびしさ」。それらの感情が、とくに仕事をやめて子育てに専念する妻側の心境に似ているのかもしれないと思えました。

 どれひとつとっても、現代的なテーマでありながら、気負いのない作品でした。これまで『読まず嫌い』とまでは言いませんが、なぜ読まなかったのか。そう思うと、もったいないかな。そして、実際の事件を扱った『隣人』(講談社、2001)も購入しました。重松さんの世界をもっと知りたくなりました。