単純に思うこと

 中曽根康弘氏が総理大臣だった頃、日本の政治には緊張感があった。たしかに、表面的には自民党社会党の対立はあったし、冷戦時代でもあった。しかし、国内の55年体制は自民と社会との対立を見せながらも、国会という意味ではうまくやってきていた。55年体制における自民党は、保守政党の連合政党であり、政権交代にはリアリティーはなかったものの、自民党内の派閥抗争によって、ある種の対抗勢力がよくも悪くも主流派をチェックしていた。



 しかし、小泉純一郎氏が総理大臣の今、なぜか緊張感がない。たしかに、いわゆる郵政選挙となった総選挙のときは、郵政民営化賛成派と反対派の対立は見せたが、結局は党内抗争であり、民主が対抗することもなく、緊張感は失われた。自民・公明の連立政権は55年体制の自民よりはオープンにはなっているのだろう。しかし、民主が政権交代をするリアリティはなく、有権者の期待としても、かつて社会党に期待していたチェック能力機能でさえないのではないかと思えてしまう。



 そんな時代の中で、自殺者3万人であり、フリーター等の不安定雇用の増大している。しかしながら、フリーターである世代の20〜30代は自民党を支持し、千葉の補選では自民は負けたが、若者層の浸透度合いを示した。インターネット・ユーザーの中には、右翼的な言論を支持するユーザーも多いが、それは「右翼的な思想」を支持しているのか、それとも「右翼的な思想で祭りとなる状況」を支持しているのか曖昧ではある。思想を支持しているのではないとすれば、単なる祭りであり、批判したところで、それは祭りに利用されるのみ。祭りとは何でもネタにして、飲み込んでしまうのだ。ただ、表面的には「右翼的な思想」は広がる。



 なぜ、政治に緊張感がないのか。あるとすれば、ポスト小泉をめぐる党内抗争だけ。なぜ、民主は存在感がないのだろうか。小沢一郎氏は存在感があるが、民主党にはそれがない。かといって、社民はかつてほど注目されないし、かといって、共産が支持を広げられる状況にはない。たしかに、共謀罪をめぐる議論は、単に国会の多数を占めればよいのではない、ことが示された。しかし、医療制度改革に関しては、多数を占めればよいとの情勢をはっきりさせた(ということは、共謀罪は、多数かどうかとは別に、与党や官僚側に別の思惑があるのかもしれない)。



 政治に緊張感がないひとつの理由は、政治への参加意識が低いことがあるだろうが、それはいまに始まったわけではない。政権交代のリアリティーの有無でもない。やっぱり、この社会への希望のなさが、「政治がどうなろうが、私には関係ない」という雰囲気につながり、政治的無関心と同時に希望の喪失感が広がっているためなのだろうか。この社会がどうなってもいい、となれば、政治に緊張感が生まれるはずもない。



 政治に緊張感がなく、この社会がどうなってもいい。そうしたムードがあったにせよ、せめて、自分の友人達に幸せになってほしい、不幸せになってほしくない。そうした思いを持てる人がどれだけいるかで、雰囲気は変わるのかもしれない。せめて、それくらいの期待はしたいものだ。