被差別部落を歩くフィールドワーク

hatesbtetuya2004-12-09


 昨日までの二日間、神奈川県厚木市内にある被差別部落を歩いてきました。出版社の編集者3人とともに、部落解放同盟の役員に案内されました。被差別部落のフィールドワークは実に久しぶり。大学時代に埼玉県狭山市に行ったときや、一人旅で行ったときに立ち寄った三重県関町以来です。

 A地区は、街道筋にあることや道が入り組んでいるなどの特徴はありながらも、指摘されないと分からない場所でありました。隣接地区の方が日当たりがよいからです。不思議だと思って聞いてみると、どうやら地理的に地下水に関係があるといいます。
 最近では、その地区を被差別部落と知らずに家を建て、引っ越してくる人もいるそうです。その意味では、どの地区かというのはどうでもよいのかもしれません。しかし、子どもが小学生になったころ、地域の人に、「あの場所がどういうところか知ってて、家を建てたの?」などと聞かれることもあるそうです。なかには、それをきっかけに引っ越してしまう人もいるとか。
 差別は徐々に形骸化されつつありますが、やはり大きいのは結婚差別。地区の人の話によると、今では被差別部落外の人との結婚は4割にもなるとか。ただ、トラブルも多いようです。残りの6割は、被差別部落間で行われ、別の被差別部落のひとと結婚するといいます。なんとも、不思議な話です。そもそも、結婚のときに身元調査が行われることもね。

 B地区は、住宅も少ないため、ほとんど分かりません。しかし生活道路がそのままのため、家の建て替えのときには、建築基準法にひっかかるらしい。その地区はこの先、どうなっていくのでしょう。その地区の入り口には、馬頭観世音があります。牛や馬の首を切り落とす仕事をしていた人たちだったのでしょう。そうしたとこにはよくあります。写真にあるように「牛頭霊」という石碑もあります。一般に「馬頭」は、「牛」も含まれているのですが、「牛頭」と記されているのは珍しい。私ははじめて見ました。ただ思うのです。近くに馬頭観世音の由来の碑が市によって作られていましたが、被差別部落とは無関係の由来が記されていました。

 差別があった/なお今もある。なぜ差別があったのかという歴史がなくなればなくなるほど、たしかに差別する理由が分からなくなります。しかし、分からないが差別は存在し続ける。A地区は伝承として伝えられ、B地区はなぜそこが被差別の地域なのかは不明ということです。歴史は消されるが、差別が消えない。しかも、誰が差別をするのかという明確なターゲットもいない。なんとなく差別されているのです。